刑事裁判の量刑相場と国民感情

名古屋闇サイト殺人に関するテレビ番組をみた。10年ほど前、サイトで知り合った男3名が、たまたま通りかかった帰宅途中のOLを自宅付近で拉致し、キャッシュカードの暗証番号を聞き出したうえで首を絞めハンマーで撲殺するという悲惨な事件であった。母親の家を買うために貯金したお金を命を最期まで守ろうとしたこと、優しい恋人がいて結婚間近であったこと、など被害者の事情が気の毒であった。

私がとくに考えさせられたのは、刑事裁判の量刑である。この事件の裁判では、ひとりが死刑、あとの2人は無期懲役になった。3人とも死刑にして欲しいという被害者の母親の気持ちは当然である。30万人をこえる署名も集まったそうである。裁判所は量刑相場を考えてこれらの結論を出したのであろう。それは理屈としては理解できる。しかし、国民感情を無視して量刑相場だけを重視して決定していいのだろうか。そのような裁判所の姿勢に問題点はないか。私は大いにあると思う。

日本では刑事事件について裁判員制度が始まり、裁判員は量刑も決定できるようになり、従来よりも厳罰化の傾向があるという(とくに性犯罪について)。たとえ被害者が1名であっても死刑判決が出されるようになった。ところが、陪審裁判が出した量刑が重すぎるとして高裁で変更される事例もある。もちろん量刑相場を考えてのことである。

アメリカにおいては、量刑を決定するのは陪審ではなく裁判官である。たとえば、関西学院大学の丸田隆教授はつぎのように書いている。

「言うまでもないが,刑罰の決定は,被告人の生命,自由,財産に対するきわめて大きな国家権力の発動である。そうであるがゆえに,アメリカの多数の州では,これは裁判官の決定事項とし,有罪答弁のあった事件(自白事件で事実関係を認めた事案)や有罪評決の出た事件では,約一月後に,量刑のために聴聞(ヒアリング)を行う。法廷には,ソーシャルワーカー,カウンセラー,心理判定士,保護司,拘置所の職員など被告人に専門的に向き合う人たちだけでなく,被害者やその家族,被告人の家族が証言し,被告人の量刑をどのようにするか,様々な観点から意見やその根拠を述べる。刑罰はきわめて重大な権力作用だから,その決定過程に「法の適正手続き保障」を徹底するのである。(私が研修を受けていたマサチューセッツ州地裁のポール・チャーノフ裁判官は,いつも,『量刑は難しい,どの量刑決定にも満足したことはない,しかし,裁判官の一番大事な使命だから全身全霊をかけてしている』と言っていた。)」
http://www.higashimachi.jp/column/column_sp01.html

しかし、日本は裁判員に量刑を決めさせる制度にした。これは、量刑の決定にあたり、量刑相場のみならず国民感情を考慮させる意味合いもあるであろう。立法趣旨からすればよほどバランスを欠いた量刑でない限りは、裁判員の決定を尊重すべきである。
以下の匿名意見は、そのような立場に理論的根拠を与えるものであろう。

「刑という連続的なものの一点、あるいはある範囲を『正しい』とするような絶対的な基準はあり得ないでしょう。正しいと正しくないに2分できるとも思いません。より妥当という相対的な判断しかないと思います。」
「すべての人に法律で定められた手続が保障された=公平な裁判によって裁かれ、出された結論は、どんなものであっても『正しい』のです。結論がバラバラになることは『悪い』=できるだけバラバラにならない方がよいという価値判断はあり得ますが、果たしてそうでしょうか?もしかするとまったく同じケースで結論がバラバラになる方が、もしかしたら『人を裁く』ということの本来の姿なのかもしれないのです。」
http://d.hatena.ne.jp/fly-higher/20090528/1243506188

要するに、量刑に「正しい」相場などはなく、公平な裁判において裁判員により出された量刑はばらつきがあったとしても、すべて正しいのである。裁判所は量刑相場を重視しすぎるべきではない。

(2017年10月10日 初出)