大学教育と学生意識の今昔
昔とすっかり変わってしまったものは色々あるが、そのひとつは間違いなく「大学教育」である。世の中の多くの人は自分の学生時代のイメージのままで大学をとらえているが、実際には、現在の大学教育は大きく変化している。
私が学生だった30年前は、大学にはまだ牧歌的雰囲気が残っていて、学生の多くは狭い四畳半の下宿に住んで、普段はアルバイトや麻雀をして過ごしていた。そして、あまり大学にはいかず講義にも出席せず、定期試験前になるとノートのコピーをどこからか入手して一夜漬けで勉強して受験しそこそこの点数をとっていた。教師のほうも研究第一で、教育にはあまり力を入れず、講義はよく休講になったし、出席をとるものは一部にすぎなかった。たまに学生が講義に出ても、講義が下手でいったい何をしやべっているのか分からないような教師も多かった。そんなわけで、当時の大学生は自分で勉強するしかなかったのである。
現在は、出席をとらなくても大学生は講義を受けに大学にやってくる。そして、多くはまじめに自分でノートを取るから、いつのまにか大学前にあったコピー屋は潰れてしまった。麻雀もしなくなった。教師のほうも、毎学期の終わりにアンケート調査があり学生からかなり辛辣な意見を受けるので、講義方法を改善するようになった。その結果、現在の大学教師の講義技術は全体的にかなり向上したように思う。丁寧にプリントを作成して配布する教師も多いし、説明も明快である。
このように書くといいことばかりのようであるが、現場の大学教師としては困った問題を抱えている。それは、大学教育が丁寧になったぶん学生の依存姿勢が目立つのである。確かに、彼らは総じて真面目で、与えられた課題はしっかりやってくる。講義も聴いて教師の言うとおりに答案を書いてくる。しかし、一方で、大学の外ではあまり勉強しようとはしないし、最近の学生は本を読まないので大学生協では本棚がまったく売れないそうである。彼らは自分たちを「学生」ではなく「生徒」といい、「講義」ではなく「授業」と呼ぶ。
私が一番驚いたのは、最近の学生意識調査によれば、学生の多くが「大学に面倒をみてほしい」と考えているらしいことである。自ら考えて行動するのではなく、指示に忠実に行動するから、そのかわり行動の責任は大学にとって欲しいということであろうか。小中学生ならいいが、大学生がそんなことでいいのだろうか。社会人になったときにも、「会社に面倒をみてほしい」というのではないか。
要するに、現在の大学教育は改善され、大学生は一見したところ非常に真面目で優秀であるが、30年前と比べて自立心や独立心が欠けている点が問題であるといわざるを得ない。これが「今の学生は手間がかかる」という教師のぼやき程度ですめば良いのだが、国際化で日本の大学キャンパスに増加する外国人学生の示すバイタリティをみたとき(とくに中国人学生の語学力、コミュ力、独立心は秀でている)、私は日本社会の将来に一抹の不安を覚えるのである。
(2017年10月3日初出)