江川紹子編「特捜検察は必要か」
江川紹子さん編の「特捜検察は必要か」(岩波書店)を読みました。この手の本には一定の立場から書かれたものが多いのですが、ジャーナリスト、新聞記者、アメリカ人教授、法社会学者、弁護士、元検察官、元裁判官などの寄稿やインタビューなどから構成されており、最後に元特捜部長も含めた対談が収録されています。論者間で意見が対立している部分もみられるのですが、かえって立場による事件評価の違いが浮き彫りになっていて、興味深く感じました。
タイトルの「特捜検察は必要か」という問いに対する答えも各論者により様々ですが、そこで共通していたのは検察官が証拠を改ざんしたという今回の事件は、一検事の個人的犯罪ではなく特捜検察の組織そのものに内在する問題が一気に露見したものだという認識でした。すなわち、検事による証拠改ざん事件の背景として、そもそも日本の検察は、非常に大きい権力を持っていて、かつ、アカウンタビリティ(説明責任)がほとんどない組織であることが指摘されています。また、特捜部には自ら事件を掘り起こして立件し、有罪を勝ち取り、良い事件をやったという評価を受けなければならない強迫観念があるといいます。さらには「関西検察」特有の人間関係や組織的特徴も関係していることが述べられています。
この本に登場する実務家の多くが、従来の特捜検察の意義を認めつつも、その仕事のやり方や組織のあり方が現代の日本社会の変化に対応できなくなっているのだと述べています。その社会の変化とは、国民の権利意識の高まりに加えて、手続きルールの変更と情報化社会の進展です。まず、手続きルールの変更。最近の刑事裁判では、裁判員裁判の実施に備えて公判前整理手続きが設けられ、証拠の開示が格段に進みました。例のM検事はこの変化に気づかないまま、フロッピーの改ざんを企ててしまったのです。つぎに、情報化社会の進展。インターネットやツイッターという情報技術は、従来ほとんど情報発信がなかった検察組織内部からもさまざまな情報が漏れるようになったり、取調べ可視化への要求が強くなってきたことがあげられます。今後の方向性として、同様の冤罪を生まないために取調べの全面可視化が必要ということで各論者の意見はほぼ一致しています。
私も取調べの全面可視化は必要であると思いますが、それだけでは不十分だと思います。やはり本質的問題は日本の特捜検察がこれまで果たしてきた役割を徹底的に見直すことにあるのではないでしょうか。刑事訴訟法の改正のみで済ませては(それすらも民主党政権の怠慢で実現するかどうか怪しいですが)、千載一遇のチャンスを逃すことになりかねません。
この意味において、法社会学者の河合幹雄氏の論説に関心をひかれました。河合氏によれば、日本社会には公私の連帯の強い支配階層とそれ以外の階層の「二重構造」があり、検察も裁判所もこの二重構造の並立を破壊してしまわないような法適用をしてきたのだといいます。このような日本社会の二重構造を成り立たせることに特捜検察が大きな役割を担ってきたとするならば、世間が考える「巨悪」と戦う特捜検察というイメージは誤りだということになります。結論的には、調子が狂った検察を正常化するというような視点ではなく、二重構造を維持するために高度な判断をするトップ・エリートの役割が特捜検察に求められる時代が終わったことを認識することが必要だと言います。むしろ、検察は「法の支配」を忠実に守る優秀な法律家であるべきだというのです。
この河合氏の意見に、私も基本的に賛成です。刑事訴訟法の改正だけではなく、法務省と検察の関係を再構成するため組織改革をしたり、検察組織の情報開示をいっそう推し進める方向で手続的工夫がされるべきだと考えます。
(岩波書店 2011年)