H氏の蹉跌

東大を出た後、プログラマーとしてインターネット事業にのめり込んだH氏は、自らIT企業を設立すると、たぐいまれな才能で会社を急成長させ、一躍、日本を代表する若手実業家となった。その後、プロ野球チームの買収や、ラジオ放送会社の買収で有名となって、マスコミには「規制緩和の騎手」ともてはやされ、衆議院選挙に立候補するほどの高い知名度をもつようになった。しかし、H氏は突然、逮捕された。嫌疑は証券取引法違反であったが、H氏は抵抗した。その当時は、日本のエスタブリッシュメント(既得権者)による陰謀であるとか、検察特捜部による国策捜査といった批判もみられたが、数年後にH氏の有罪が確定して彼が服役すると、規制緩和政策の退潮もあり、世の中はそれまでの喧噪を忘れたかのように静かになっていった。刑期を終えて出所したH氏は、最近、活動を再開した。自己イメージを変化させるためマスコミに積極的に出演したり、本を出版して閉塞感に苦しむ若者中心に支持を集めている。

私自身は、かつてH氏の活躍を好意的にみていた者のひとりである。頭が良く、革新的なアイデアで既存の商慣習に果敢に挑戦し、成功している姿を見て、新しいタイプの経営者が現れてきたと期待していた。しかし、残念なことに、H氏は躓いてしまった。いまだに、支持者から、H氏の蹉跌の原因は、エスタブリッシュメントによる陰謀であるとか、えん罪であるとか、いう意見がみられる。私にはそうは思えない。裁判所の事実認定が正しければ(正しくないのかもしれないが、それは証明されていない)、彼のしたことは証券取引法違反にあたるだろう。類似事案に比べて厳しいと思える実刑を受けたのも、本人に真摯な反省がみられなかったためであろう。法律家の目からすれば、裁判自体は不当とは思われない。

私の見解によれば、H氏は、ある意味で素朴な法実証主義者なのである。法実証主義とは、簡単にいえば、実定法だけを法と認め、道徳や政治や宗教的要素が法に入るのを拒む立場をいう。H氏はその著書で、会合やパーティでネクタイを締めることというのが明文化されたルールであればそれに従うが、それは明文化されたものではなく、ただの慣習であり、空気であり、いい加減な常識であるから、ネクタイを締めるのが嫌いならば従う合理的な理由はない、と書いている。たしかに彼の行動の大半は、このロジックで貫かれている。

ところで、指摘されることは少ないが、官僚組織を含む日本のエスタブリッシュメントは、基本的には法実証主義の立場をとっている。ところが、不思議なことに、明文化されたルール以外にも、エスタブリッシュメント独特の慣習や不文律が厳として存在しているのである。具体的なことはここに書かないが、建前は「明文化された法や規則だけが拘束力をもつルールである」という体裁をとりながら、実際は明文化されていない慣習や不文律により世の中が動かされているというのは、悪い意味で、日本では大人の常識である。

H氏からみれば、エスタブリッシュメントが勝手に決めた慣習や不文律に反して何が悪いのか、と怒るのも当然である。彼は、法実証主義の正統な教えを徹底しただけだから理論に忠実なのである。ずるいのは、局面に応じて二枚舌を使っているエスタブリッシュメントのほうなのである。

しかしながら、私はやはりH氏の主張に危うさを感じる。というのも、彼の理論でいけば、明文化されたルール以外には何も権力者の行動を律するものがなくなるからである。最終的には力と力の戦いとなり、H氏が勝利すれば自己に都合の良いルールを制定するだろう。日本のエスタブリッシュメントには、理論的には不徹底かもしれないが、慣習や不文律という制限があった。

閉塞感に苦しむ若者の多くからH氏は日本社会の不合理な慣習や不文律を克服する自由の闘士だとみられているようだが、果たしてそうだろうか。慣習や伝統をすべて「不合理」として否定した社会には本当の自由がないことは、共産主義国における数々の失敗例が明らかに示すとおりである。ある社会に存在する慣習や不文律の中には良いものと悪いものとがあることを認め、人々の地道な活動によって悪い慣習を少しずつ変えていくことでしか、自由は守られないし、社会は良くならないのではないか、と私は考える。

(2014年2月14日 初出)